感情が揺れるものなんてないと思ってた
067:この手に残るものは、何一つなくてもいい
何かに執着することも少なく卜部巧雪は生きてきた。少々行儀と治安の悪い場所へ出入りする身としてものを惜しがるようなことはあまりない。欲しがるものがいればゴミでも売り物になる。手離れが良いのは惜しがることによってつけ込まれないようにする防衛本能だ。ただ、と思う。もし執着があるとすれば、それは藤堂鏡志朗という男なのだろうと思った。藤堂というこの男は軍属として出来が良くて人望もあった。戦闘技術も長けていて発案から実行までこなす。直属の部下になってからしばらく経つと面子の入れ代わりもなくなり四人ほどが固定化した。四聖剣という別称をいただくのは気恥ずかしいような気がしたがそれで終いだ。こだわらないのだ。
お行儀のよい世界があればそうでない場所も確実に存在する。そういう場所ばかりかぎ分けて出かけて行くのを藤堂がいちいち注意する。大丈夫ですって。へらっと笑ってかわしながらその行儀の悪い世界でも戦意高揚を謳い始めていることに面食らった。これは本腰を入れなければならぬかと思う。卜部ははしくれではあっても軍属だ。戦地へ赴くのはそう遠くなさそうだなと覚悟なのか認識なのか判らぬものを抱える。そんな折であったから藤堂から呼ばれて出かけたら同衾したいと言われてますます死地が近づいたような気になった。軍属は性別の割合に著しい偏りがある。悪ふざけも含めればそう目くじら立てるものでもない。ただ己がそういう対象になるとは思っていなかったから驚きはした。愛くるしさや線の細さやそういったものはない。細身と言えばそうであるが華奢というより痩せているだけである。藤堂も藤堂で腹に何か抱えているようで忘れたいかのように卜部の体をむさぼった。好きにさせているだけなのに卜部の体温も上がった。何故同衾の相手に選ばれたのかは訊かなかったし藤堂も言わなかった。ただ確りとした男の体の火照りと熱源を呑みながら発散したい鬱屈をこの男でも抱えるのだと意外な気がした。
厳島での大規模な軍事作戦の実行。
勝利を目前にしての敗走。
局所だけではなく日本という大元そのものが敗けた。
そうして卜部たちは図らずも地下へもぐる身になった。
軍属が横滑りしてそのまま反政府勢力団体の筆頭になった。解放戦線と名前は意気込んだが実体は軍属の寄せ集めだ。それぞれに仰ぐ上官を持つものばかりで派閥が生まれそれは時に暴走を孕む。一枚岩ですらないのかと思うと力も抜けた。卜部の立場としては藤堂についていくだけであるが派閥争いなどは余分な面倒ごとだ。当の藤堂は言葉少なな性質で語らないからどう思っているのかは知らないが臆病とそしられても時期ではないと動かなかった。
雨後の竹の子のようにレジスタンスは発生したが小規模な団体がほとんどで資金繰りもままならないのが現状だ。俺達もそうか、と思う。奇跡の藤堂という看板があるから援助を受けていられるがそれもいつまでもつかというところだ。なんとなく直属上司のところへ集まっていたから藤堂のもとへ行ったら卜部しかいなかった。藤堂にほかの面子のことを訊けばそれぞれに用事があるらしかった。事を起こすには下拵えが必要であるからそれだろうと深追いはしない。卜部の位置では見えない図面が引かれているのかもしれない。二人きりであるのをいいことに口調が砕ける。
「中佐ァなんであの時俺と同衾したンすか」
「…覚えておきたかったからだ。それに」
「それに?」
「お前に私に執着してほしかった」
お前は優秀なのに手を離すのが早い。しかも何物にも執着しない。朝比奈と足して二で割ったら丁度良いだろうな。くすりと揶揄されてはぐらかされていると気づくのに遅れた。中佐が一番自分に執着してねぇじゃねぇですか、そんな野郎が他人に覚えていてほしいなんて思うか。あぁ、思った。しれっと言われて毒気が抜けた。
「…――俺は」
藤堂は黙して待つ。この男はいつでも堪える。
「俺はこの手に何も残らなくても構わねぇですよ」
藤堂の灰蒼が刹那見開かれたがすぐに戻る。そうか。執着はつけ込まれる弱点になる感覚があるから。だがそれは少し、寂しいと思う。淡々とした低い男の声が紡ぐ内容はあまりに無垢で幼に満ちているような気がして卜部は笑った。らしくねぇ。
「中佐ァ、もっとどっしり構えていてくださいよ。俺なんかに拘泥しないで」
「私は四聖剣の誰を失うのも嫌だが」
「嫌だで事が免れる事態じゃねえでしょうが。自分の立場考えてくださいって」
反政府勢力の中じゃ旗印なんだ、あんたは。藤堂が苦いような表情をするのを見て卜部はひどく楽しい気がして喉を鳴らして笑った。人の嫌がる顔を見て楽しく思うな。見抜かれている。
だからたぶん卜部は。
自分が執着するとしたらこの男なのだと思う。
だから
自分の手の中になんて、なに一つ残らなくて良いと思った。
《了》